思考の根っこなんて早々変わらんだろ

自己分析なんてやったって、結局自分がやりたいことなんて一つしかなかった。
結局そのために「自分なり」を繰り返すことで、
トスカー二に出会い、佐藤雅彦さん他に出会い、写真に出会い、映像作りに出会い、MPに出会い、宣伝・制作周りに出会い、劇団の立ち上げ風景に出会ったりしている。
そんな今。

幼い頃の記憶なんて、掘り返しても意味ないじゃん、という感覚ではなくて、
幼い頃の深い記憶だからこそ、ことあるごとに身に降りかかってきた。
そこからそれをどう、言い回すか、それを探求するばかりで
細かいニュアンスが変わることはあっても、結局根っこは変わらんよ。
少なくとも私はそうだった。
そうでない人は、きちんと自分史書くなりしてみればいいと思う。


「考えられない」という意味でのバカが嫌いだ。
バカになってしまう人が増えてしまうのは嫌だ。
だからそれをどうにか食い止めたいのだ。

皆が考えれば、少しはいいもの、見えてくるんじゃないのか。
少なくとも、考えるようにする、興味を持つ、ことで世界は広がる。
まぁ、あれですわ、民度向上したいんだ、とか言いたい。
手近なところならば、性悪説支持だけど、もっと広く考えようとすると人間の根はきっと善いモノなのだと信じてしまっている。


学生団体で宣伝美術をやろうと思ったのも、結局それがあったから。
もっとこの団体を知らなきゃいけない人がいるだろう。
うまくもっと伝えられるだろう。
入ったら変われる人、もっと「幸せ」になれる人も多いだろう。
1年目の活動が終わって、うみのや@馬場から周りの友人と話し合いまくって、「気持ち悪い」とか言われながらもおそろいでウィルコム買って、話して考えて、話して。
その結果が、私なりの宣伝美術の根っこにあった。
その根っこだって、結局自分が常々思っていたこととも大して変わらなかった。
まぁ、こちらは「MP教」みたいな、若干宗教じみてしまっているところも大いにあるのだけれども。
そして自分が行ったことの結果に関しても、考える。
実際、団体の外の方々のご協力、新しい試みの甲斐あって、公演動員数は爆発的に伸ばせた。
でもそれが、本当に自分がやりたかったことの結果の反映なのかは、正直よく分からない。
ヒアリングは重ねていますが、規模が大きかったこともあって、届けられたことも感想も、やはり人それぞれだもんな


ただ、「知る」ってことの価値は人によって違うのだと思う。
ただ知るだけじゃなくて、ある程度考えることも求めてしまってるのだと思うから。
実際腰痛で退部せざるを得なくなったりなんだりだった高校の部活は、いろんなことを知ることで私は乗り切れた。
運動バカが、世界の広さを知る。知るってなんか、楽しいじゃん。受験勉強ではない、「知る」を知ることができたこと、たったそれだけのことが、高校生活かけてた部活で全国にもインハイにも行けなくなったこととか全部吹き飛ばしてくれるようなパワーを持っているのは、すごくないか。そう思う。
でも、これは自分だけの価値観なのか?
これは、一抹の不安。

そしてこの不安があるからこそ、なんだかまだジメジメしてしまうんだよね。
この変革期、何も確かなことはないのだと思う。
だからR社の人気企業ランキングとかに踊らされてしまうのも、愚行だ。
小さいところだと、何もできないとか思うのも、愚行だ。


ぐわー。どこなんだ、私の将来の居場所は。